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68歳現役ボーカリスト

呪われたグラバー家

龍馬伝もいよいよ来週が最終回だ。
いろいろ言う人もいましたが、面白い大河ドラマだったと思う。
ファンの女性は、龍馬が殺されるシーンは見たくないって言う人も。
今日は龍馬伝にも出たグラバー一家のその後を調べたので、その後を
書かせてもらいます。

戊辰戦争で一挙に財をなしたグラバーだったが、その後、事業は上手くいかず倒産する。
ようするに、もっと内戦があると見込み、いっぱいの武器を輸入したのに売れず。
そして、炭鉱など事業もいっぱい広げたのも倒産の要因。
しかし、彼が日本に残した事の中には、「死の商人」での武器売買以外にけっこうありました。

グラバー家は本国イギリスでもともと造船業を営んでいたため造船技術の知識は豊富であった。
薩摩藩の五代友厚らと共同発起した船舶修理場からスタートして、1868年には小菅のソロバンドッグの建設を始めた。
翌年、政府がこれを買い上げ、1887年には三菱造船会社の所有となった。
三菱長崎造船所のはじまりである。
ここは今も有るので、見る事ができます。

さらに上海の展示会に出品されていたイギリス製鉄道機関車を日本に取り寄せ、現在の長崎港税関あたりからのちの高島炭鉱の所属地までレールを敷き、日本ではじめて鉄道機関車を試走させている。
1869年、アメリカ人によって開設されたビール醸造所を、1885年、ビール産業の将来性に着目して買い取り本格的なビール醸造に乗り出しジャパン・ビリウリ・カンパニーを設立する。
この会社が後のキリンビールとなる。

その後、グラバーと妻・ツルは長崎から、1893年頃東京に移り住む。
今も観光客が絶えないグラバー邸には息子・倉場富三郎(ハーフ)とその妻・ワカ(ハーフ)が残った。
この夫婦は、二人とも、母が日本人のハーフである。
倉場富三郎が71才の頃、日本はアメリカとの太平洋戦争に突入する。
南山手のグラバー邸からは、軍事工場ともなっている三菱造船所がまる見えだ。
当然外国人である富三郎に対して厳しい監視の目が向けられた。

スパイ容疑をまねかないように、富三郎は諏訪神社の氏子として、戦勝祈願などに顔をだし、
同じハーフの妻であったワカは愛国婦人会に加わって、出兵兵士の送迎、千人針、戦地への慰問袋などに協力した。
しかし、日本の敗戦色が強まる中、倉場(グラバー)一家に対する不信の目におびえたワカが自宅で急死。
2人の間には、子供はいない。

その後、1945年8月9日午前11時2分、松山町上空490メートルで原子爆弾が炸裂した。
幸い爆心地から5キロ離れた南山手地区は被害は軽微であったものの、「死の商人」と評されるグラバー家のなんと皮肉な「めぐり合わせ」。

長崎の街にも、米英軍が占領軍として上陸するという噂が流れ様々な風聞が飛び交った。
そんな中、富三郎は今度は逆に日本への戦争協力の姿勢が占領軍に糾弾されるのではないかという不安にさいなまれていく。
敗戦から約10日めの朝グラバー家は最期の日をむかえる。
終戦の年の昭和20年8月26日午前4時頃、トーマス・グラバーの子倉場富三郎は洗濯物の紐を首に巻きつけ自殺。
74歳9ヶ月の生涯であった。

グラバ-家の軌跡は、戦争が一族に仕向けた皮肉な「めぐり合わせ」。
こう言う詳しい事を知るにつけ、戦争で財を成したが、戦争でグラバー家が終末したことになる。
だからグラバー家は、戦争に翻弄され続けたといえるかもしれない。


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トーマスグラバーと息子の倉場富三郎
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娘と行ったグラバー家の墓。
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by aibiki2009 | 2010-11-22 17:19 | 歴史っぽいお話 | Comments(0)

還暦を過ぎても、現役ボーカリストで頑張ってます。スタンダードやハワイアンを中心に歌ってます。血液型 O型