2011年 02月 02日
団塊世代は2部授業だった。
戦後、昭和22,23,24年生まれを団塊の世代と言う。
私は団塊の世代の最後の年の昭和24年に生まれました。
そして、子供の頃から大人へと成長する期間は、全てにおいて競争でした。
何故かと言うと、生まれた子供が異常に多かったからです。
この団塊の世代と言う言葉は、堺屋太一が作り上げた造語だ。
この3年間に多数の子供が生まれた。
終戦後、戦地から復員した男達が、結婚し子供を作った為、大幅な人口増加が起きたのです。
それと、1948年までは一部の例外を除き一般の避妊・中絶・不妊手術は法律で禁止だったのも
大きな要因のようです。
その後、経済的理由の避妊が容認されだし、人口増加にストップが掛かったのです。
団塊の世代は、その膨大な人口のため、幼い頃から学校は一学年二桁のクラスが多かった。
今の時代は、せいぜい2~3クラスでしょう。
中には1クラス作るのに四苦八苦の小学校もあると聞きます。
そして、1クラス50~60人もいて、教室内は、すし詰め状態。
児童が多すぎて、教室が足らない学校も出てきたのです。
で、如何したかと言うと「2部授業」と言うやつをやりだしたのです。
午前中で授業を終えるグループと、午後から授業を受けるグループに分けられたのです。
教える先生もぶっ通しで、大変だった思いますよ。
小学生の低学年の頃ですから、あまり覚えてませんが、午後から授業を受ける時は
昼ごはんを食べてから、昼頃にゆっくり小学校に通うわけです。
午後の部の児童たちは、午前中はなにもすることがないので、友達と遊ぶことになり、
あんまり遊びすぎて肝心の授業時間には疲れはて授業にならないという事態に。
そこで、学校から午前中はあまり遊ばないようという連絡がきて、母親から注意されたのを覚えています。
しかし、小学生で、ゆっくりの午後からの登校なんて、社長出勤みたいでしょう?(爆)
その後、校庭に仮校舎を作り、全生徒が、朝から授業を受けられる環境にはなりました。
あくまでも、突貫工事で作った仮の校舎でしたよ。
そうして、この2部授業は終わりました。
仮の校舎なので、その後も、新しい校舎作りは継続して工事してました。
昭和30年代の初め、日本が敗戦から立ち直り、復興を必死でやってる頃の話でした。
毎日今日はハイが振るか?と風向きと爆発噴火に一喜一憂しています。どうも長期戦になりそうで憂鬱です。
僕らの小学校は第六小学校といって旧陸軍の兵舎を使っていました。学級数は6学年とも6クラス、人数は55~6名でした。
私はトランドセルはありましたが布製のお古でしたよ。
学生服もお古で次も当っていた記憶があります。でも、たのしかった。
古きよき時代です・・・(^^)
そうですよね。
風向きで灰が降って来るか、来ないかで生活がまるっきり
違ってきますからね。
そう言う意味では、桜島の噴火で、火山灰が良く降る
鹿児島市付近の人は頑張ってますよね。
Nさんは、生まれてこのような火山爆発による被害の
経験はあったのでしょうか?
初めてだったら、とても大変だと思います。
物がない、設備がない、でも人はいっぱい。
このような環境でしたが、皆同じ環境だったので
ちっと不便を感じた事はなかったです。
逆に、いまとなっちゃいい経験をしたんだな~くらい。
子供の頃は、いっぱい苦労した方がいいです。
それが、将来の糧になってますから・・・。
もっともあれに比べればどうってことはない程度ですが・・・!?
それに桜島噴火がひどいころ、鹿児島に勤務していたことがあります、独身のころですが。その頃は30年ぶりの大雪で、灰まみれの雪に悩まされました。
もう1つ、長男が鹿児島の鹿児島商工高校(剣道の名門)に特待生で行くことになって、見学に行ったときに、噴火した灰がザーっと音をたてて降ってきまして、特待をお断りしたにが~い経験があります。
普賢の時は、40日も滞在したんですか。
どうりで、島原城が懐かしいってコメントの意味が分りました。
息子さんの特待生を断った?
凄い息子さんをお持ちなんですね。
いや~~ビックリ。
剣道家族ってことは知ってましたが、そこまでとは。
うちらは朝から晩まで大声をあげっぱなしで・・・!?
たぶん実技科目が削られて、土曜も授業だった。
中休み・給食・昼休みがなく、1日4.5時間かもしれない。
途上国に行けば、今でも2部制の小学校がありますね。
※クラス分けは、どうだったのかな?
同年輩の人ですかね?
違っていても、たぶん、
我々世代に近い年代の方でしょうね!
今の時代は、学校が閉鎖されたり、合併されたり
時代の変化を感じます!
とにかく、貧乏な時代でしたよ!