2011年 11月 26日
長崎の元祖・長崎甚左衛門の墓へ行ってきた。
そこに鬼が島を退治した桃太郎のような像があり、何も知らない子供の私は
この人は誰だろうと、ただ思うだけでした。
この像の人物こそ、長崎の開港の祖、長崎甚左衛門だったのです。
学者の中には長崎を売り渡したやつ、なんて言う人も居る!
日本で最初のキリシタン大名・大村純忠と同じキリシタン。
長崎を最後に統治していた人だが、その後、波乱に富んだ人生を送る事になる。
1548?~1621年(天文17?~元和7)長崎に生まれ、長崎最後の殿様でもある。
通称甚左衛門、教名ベルナルドと言い、長崎左馬太夫純方の子。
長崎のルーツ的人なのに、おおざっぱにしか長崎甚左衛門のことは知らない。
だから、少し調べる事にしたのです。
それと共に、今日は、天気も良かったので、現存する長崎甚左衛門の
お墓へも行って来ました。
長崎小太郎重綱を初代とし長崎氏14代目にあたる。
長崎小太郎重綱は鎌倉初期ごろの肥前国長崎出身の御家人。
鎌倉時代は長崎浦の地頭職で知行していた。
長崎の町は1571年の開港以前は小さい漁村でしかなかった。
その頃の長崎氏の範囲は、後年の長崎氏の居城があった鶴城(桜馬場城)
付近から現在の県庁付近までといわれれ、領民はそこを中心に
1500人ほどであったとされる。
長崎甚左衛門の妻は、大村純忠の娘とらである。
大村氏に属し石高は970石で、鶴城(桜馬場城)を拠城とし、
城下に館(現桜馬場中学校)を構え、城と館を中心に素朴な城下町があった。
義理の父親である大村純忠とともに、南蛮貿易の拠点と切支丹の安住の地とすべく、
イエスズ会の宣教師や神父とともに1571年長崎港を開いた。
1569年、古寺を改造し「小さいが美しい教会」長崎初のこの教会は、
トードス・オス・サントス(諸聖人)と名づけられ、長崎の港に入る船から
その教会がみえたらしい、現在の春徳寺の付近と言われている。
1587年の豊臣秀吉の宣教師追放令にともなって、翌年長崎は天領として
取り上げられ、1605年に自らの領地も大村領に換地され、14代目の
長崎の最後の殿様は、開港に賑う長崎を去るのである。
大村純忠の子喜前は、所領を失った長崎甚左衛門に時津村を与えようとしたが受けず、
筑後に出奔して田中吉政に仕えるが、田中家が断絶したために
結局、また大村に帰り横瀬浦で100石の扶持を与えられ、その後時津に移り住み、
甥で養子の長崎内匠のもとで余生を送ったのです。
何とも可哀想な人ではないか!
この墓は、元禄15年(1702年)子孫の大村内匠助長瀬が建てたようです。
300年以上経った墓が、
今も大切に守られてました。
いつも研究熱心で感心させていただいてますm(__)m
ところで、長崎小太郎が長崎のじげもんとの説ばってん、私が以前聞いた説(鎌倉・伊豆からの移動)と違うのですが、出典は何ですか?
良ければ、教えてくださいませ(^-^ゞ
さっそくのコメント有難うございます。
私が調べたのは、南北朝期から室町、戦国時代にかけて
地方別武将家一覧と言うサイトです。
かなり専門的に紹介してます。
アドレス:http://www2.harimaya.com/sengoku/buke.html
ここで調べて分りました。
ただ歴史なので、どれが本当なのかは、信じるのみです!
そこに書かれていた文面をコピペしておきますね。
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江戸時代の諸書は、長崎小太郎なる人物が鎌倉から室町時代にかけてのある時期に他所から長崎に下向、土着したとするが、最近発見された「福田文書」で、同人が鎌倉初期の嘉禎三年(1237)ごろの肥前出身の鎌倉御家人と判明。これにより、長崎氏は鎌倉時代では長埼浦の地頭職を知行する御家人であったと結論づけられた。
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さるく案内人としては、ハッキリしておかないといけないと
思いますが、ここの文章を読むとジゲモンでは?
今でもお花を手向ける人がいるんですね。
私の廻る古いお墓はほとんど大名でも花はありませんね。
この長崎甚左衛門は初めて聞く名前です。
勉強になりました。そこから長崎という地名になったんですか。
この人は、長崎人の中では割りと知れ渡ってます。
でも、詳しい事はあまり知らなかったのです。
そして、わりと近くにこの墓がある事は知ってましたが
行った事がなかったのです。
そして、行ってみる事にしたんですが、今でも、綺麗に残っている
長崎甚左衛門のお墓を見させてもらい、無知だった事を反省し
調べたんです。
お花は誰が供えているのでしょうか?
綺麗に供えてました。
きっと、守り続けている人がいるのでしょうね。
長崎の地名の由来は、この人からという説と、長い岬(長い崎)が
つづく景観から来た説とがあります。
おそらく、景観説が妥当だと書いてました。
年に数回は家族で来崎し、お墓参りをされていますよ(*^^*)