2013年 05月 28日
長崎八景!8-3
永見徳太郎編集『長崎版画集』(九州大学付属図書館所蔵・貴重書)によるものです。
「晴嵐」は晴れわたった日のかすみのこと。
この絵には中島川に架かる一ノ瀬橋の周辺が描かれている。
橋の右手にある蛍茶屋は、長崎を離れる旅人と別れの宴を開く場所。
正面の山は彦山、左手の山は峨眉山である。
幕末のころじゃないかと言われてます!
承応2年(1653)陳道隆の寄進による、この一ノ瀬橋の付近を一ノ瀬口と言う。
長崎街道の始発口にあたる。
長崎から江戸へ歩いた象もここから旅立っている!
陳道隆は、妻・法春院が慶安5年(1652)に病没、翌年(1653)、日見峠への道筋にあたる
この場所に妻の追善供養の為アーチ式石橋「一ノ瀬橋」を架けたようだ!
石橋の中では三番目の架設で、現在の橋は明治20年頃に架け替えられていて
外人さんでも分かるように、橋の名前もローマ字で彫られている。
ここは長崎街道の始まりあたりで、長崎を旅立っていく人と、
見送り別れを惜しむ人が酒を酌み交わした~~ そんな茶屋があった。
絵でブルーの色の屋根がその茶屋だ!
また、逆に長崎に帰ってくる人、長崎を訪れる友人達を出迎えた場所でもある!
当時は、とてもキツイ長崎街道の峠だった!
ここも変ってしまい、バックの山が残っているので、少しイメージできるかな?
此れはやはり解り辛いですね。
浮世絵の中央の山の下のお寺はまだあるんでしょうね。
路面電車の蛍茶屋の意味がわかりました。何んだろうと思っていました。
当時としては石の橋は流石長崎ですね。
当時は、歩く為の街道、今は、それらを壊して、
拡大して工事したり、崖もセメントで固めたり、川も
コンクリートで固めたりで、歩く街道だったところが
無くなったりして、絵と随分変わりました!
やっと判断できるのは、後ろに書かれている山のみ!
英彦山は、今も残ってます。
そして、中央のお寺みたいない場所は、確認してませんが
残っていると思います。
ただ、明治維新の神仏分離で、寺かどうか分かりません!
こんど確認しないといけませんですね!
うしろの山は「英彦山」っていうんですか?
それっ「てヒコサン」って読むんですかね?
名前は聞いたことがあります。でもどこにある山やら、どんな山やらぜんぜん知りませんでした。
もし、それが英彦山なら、「あ~、これがひこさんか~!、でも何で有名なんかな~!」
という気がします・・・が・・・(^^;)
現在はいろいろ便利になってますが、ある意味、昔のほうが風情があってゆったりした時間がながれていますね!
タイムスリップしてみたい気がします。
母の遺品整理とお部屋の模様替えを気合いれてやったので
まだ、その疲れが取れません!
まだ、マンションの大規模修理はやってます。
それが、終わるころには、部屋も外も綺麗になり、新築の
マンションに入ったようになるでしょう!
さて、英彦山って書いて、「ヒコサン」って読むのは正解です!
この山は、長崎街道の峠がある場所だから、書いてると思います!
坂本龍馬や勝海舟らは、歩いて長崎入りした時は、
この山を越えて歩いて来てるし、この橋を渡って、やっと
長崎に着いたと実感できたのです。
当時は、この一之瀬石橋から長崎って感じなんですよ!