2017年 04月 03日
長崎居留地を作ったのは天草の人!
長崎の町を構成する景観の中には、異国情緒をそそるものが数多く存在する。
丘の上の教会堂、和洋折衷の洋風建築、雨に濡れた石畳などなど!
これら外国人居留地の風景も「異国情緒」長崎の代表的景観のひとつだ。
しかし、これら広大な居留地を造り出したのは長崎人ではないのです。
天草出身の北野織部(北野家へ養子にでてる)と小山秀之進という兄弟なのだった。
大浦海岸一帯18,525坪という広大な土地を埋め立て、これを中心に周辺一帯及び
背後の山手を含めて34,652坪の宅地を造成は、長崎人では出来なかった!
天草は、かねてより新地開拓、新田開発など、各地に干拓の歴史を持つ土地柄!
天草は石も取れるから、護岸工事には、天草石が利用され、労働者も動員!
長崎を巡る幕末の動乱と、華々しい近代化の影に隠れてしまったが、
天草人夫集団の存在が、実は「異国情緒」長崎の基盤となっているのです。
この事は、あまり知られて無い!
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長崎古写真の話題ありがとうございます。
居留地を造ったのは天草の人だったのですね!!
aibikiさんのおかげでまた一つ知識が増えました(^^)
話しは変わりますが、昨日から花粉症再燃で鼻水が止まりません(泣)
土日、マスクなしで外出したせいかもです・・・(><)
aibikiさんは大丈夫ですか?
なぜ長崎の人がやれなくて、天草の人が長崎の開発をやったんだろう・・・?
でも、おかげさまで、今の長崎があるんですね・・・!
きのうのブログはフネの話でしたが、ちょっと小さめの観光船でした。
これぐらいのフネだと、いかにもフネ~って気がします。
総トン数の話が出てましたが、商船と軍艦で同じトン数でも、まったく違うんですよ!
商船は容積トン、積載トンなどがあり、軍艦は排水トン、つまり重量トンなんです。
たとえばタンカー、2000トンのフネでも、倍の4000トンを積むことが出来る・・・みたいに!
だから見た目ではなかなかトン数は分からないんですね!
客船は積載スペースで決まるのかな?
スペースでもからっぽの広さなのか、ブリッジや機関室その他も入れるのか・・・いろんなトン数があり、ややこしいです・・・^^;
1トンが何Kgかも、英国トンや米国トン、何とかトンとか色々ありますネ!・・・汗
この「長崎外国人居留地建設計画」たるものは、大浦海岸
一帯を外国人の貿易活動の基地と住居を提供するという
事から始まり、長崎奉行が担当してます!
当時、中国人の貿易のための船着き場もあったので
唐人屋敷に住んでる唐人から反発もくらってます。
日本人が埋め立ての工事が出来ないなら、上海にいる
イギリス、アメリカ人がやると言い出してます!
そこで名乗りをあげたのが、天草の北野織部だったのです!
私もまだ目と鼻は花粉症で苦しんでますよ!
天草は、土木に関する事業を当時各地でやっており
知識があったようですし、仕事もあまり無かった事から
人夫もかなり集めることが出来たのです。
長崎には、そう言う大規模な経験がある企業は当時無く
受ける事が出来なかったのです!
昨日寄港した船ぐらいが私は好きです。
あまりにも大きい船ばかり入港してたので、へきえき
しており、あまり写真を撮る気も起きませんでした!
商船と軍艦での総トン数が違うのは知りませんでした!
単純な疑問ですが長崎人っていたんでしょうか?
幕府直轄領は狭い地域、また出島はオランダ人居留地で外には出られず、中国人だけは唐人屋敷でしたよね。
この辺りに住んでいた人は?多くの周りは鍋島領のような?
開港した頃は、名も無い寒村でした!
が、幕末くらいになると、5万人くらいの人口はいたようです!
ただ、物を売る商売の人中心で、このような土建業の人は
あまり居なかったみたいです。
天草は良質の石が取れたので、天草の業者が長崎にかなり運んでますね!
そうです!
長崎の直轄地以外は、まわりに大村藩とか、佐賀藩の
飛び地がいっぱいありました!
昔の長崎は今と違って、ほんの少しでしたね!