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68歳現役ボーカリスト

カテゴリ:歴史っぽいお話( 56 )

江戸時代、長崎にてポルトガル船員61名処刑!

今日は、意外と知られて無い江戸時代、長崎にてポルトガル船員の大処刑のお話!
1637年(寛永14年)、鎖国を決定づけたのは、島原の乱である。
この事件で、幕府はキリスト教を反乱の元凶と考え、ポルトガル排除を準備し
そして、ポルトガル船の来航を禁止!
その後、長崎にて、1640年に大事件が発生している!

それは、禁止されたその翌年にポルトガル船が通商再開を求めて再び来航したのだ!
遠路はるばる来たポルトガルの船員、乗組員74名中61名を長崎にて処刑したのだ。
その数の多さにちょっとビックリです!何もそこまでしなくてもって!
多少処刑ぜず残したのは、これらの事件を本国へ報告させる為らしい。
残りの船員は返し、この事件を報告させている!!

それ以降、福岡藩、佐賀藩が1年おきに長崎警備が始まるのである!
幕府は、かなり野蛮なように見えるが、ポルトガルは日本人の奴隷化による人身売買を
それまでにやっていて、尚且つキリスト教信仰による島原の乱、そして
植民地化の怖れなどもあり、秀吉、家康、秀忠、家光らは嫌悪感いっぱいだったと!

下の絵図は、その後、1647年6月に再度、ポルトガル船が来港した時の絵図!

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長崎奉行は、幕府の指示を待つあいだ、ポルトガル使節が船から降りたり、
勝手に出航したりしないよう、ただちに厳重な警備にあたりました。
そのものすごく厳重な警備の様子が詳細に描かれた一枚の絵図です!

この時は、前回のポルトガル船員処刑の報復を恐れていて、この非常事態の警備に
伊予松山藩・伊予今治藩、細川藩、福岡藩、佐賀藩、大村藩、小倉藩、柳川藩など!
軍勢は約48,300人、船は約898艘がこの警備に参加したと記されています。
その後は、処罰なし"とし、幕府の出航命令に従って長崎港を8月に去っていきました!

これ以降、ポルトガル船は来てない!

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by aibiki2009 | 2016-11-13 19:43 | 歴史っぽいお話 | Comments(2)

長崎とロシア人!

今日は、久々に、長崎の古写真による歴史を書きたい。
長崎とオランダ、中国との関係は有名だから皆さん良く知ってるけど、ロシアとは?
長崎とロシアの歴史は帆船『ナジェージュダ号』が台風の猛威を切り抜け、
日本沿岸に近づいた1804年の夏に始まってます。

その後、嘉永6年(1853)、ロシア使節プチャーチン来航の際、初めて上陸を許された。
町奉行との交渉の結果、ロシア人海兵のために、長崎中心部の対岸に稲佐と言う地区が
あるが、そこにある悟真寺と言う寺の一部が提供され、兵舎と倉庫などが造られた。
こうして稲佐地区に長崎のロシア人居留地は確立していったのです。

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そして、この場所は「ロシア村」と呼ばれるように。

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ロシア海軍将校と料亭でのショット!
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ロシア海軍士官と長崎の”娘”たち。 1865~66年ごろ上野彦馬のスタジオで撮影!

長崎港は、港が凍結するウラジオストックを母港とするロシア極東艦隊の越冬地になり
稲佐に多くのロシア兵が上陸するようになった。
嘉永6年(1853)7月以来、日露戦争までの半世紀の間、稲佐エリアは「ロシア人休息地」
として、遊郭、料亭、ホテルなど賑わいをみせていました。
しかし、日露戦争勃発で、ここからロシア海軍は消えてしまい、日露戦争終戦後は1次期
捕虜などがいたようだ!

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1870年頃のロシア人墓地!
今は、稲佐地区にあるロシア人国際墓地で、当時の事を知る事が出来るくらい。

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by aibiki2009 | 2016-10-01 19:22 | 歴史っぽいお話 | Comments(4)

今週の大河ドラマから~秀吉の残虐性が酷い!

今週の大河ドラマ・真田丸で、秀吉の残虐性が描かれていた!
長崎で言えば、秀吉の命令で、キリシタン弾圧の中、京都から長崎まで
歩かせて西坂の丘で26聖人を処刑した残虐性は知っていたが!
今日書いたのは、大河ドラマでの秀吉の残虐性があまりにも酷いから。

秀吉には、まず弟の秀長がいたが、1591年に亡くなる。
同じ年に嫡男の鶴松も3歳で亡くなってしまい、その時点で跡継ぎがいなくなった!
そこで、秀吉の姉の長男である豊臣秀次を養子にして、関白にしたのです。
だけど、全権を譲ったわけじゃなく、朝鮮征伐に秀吉が専念した時の代行をした。

1593年に淀殿が秀頼を生むと、年老いた秀吉は秀頼を後継者にしたいと
思うようになり、秀次を疎ましく思うようになる。
そして、秀吉は、謀反の罪で関白・豊臣秀次を切腹させるのである!
そして、斬首した首を三条河原にさらし首にするのだ!

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大河ドラマでの秀次!

これだけでも酷いが、その後、秀次の一族39人総ても、処刑してしまうのである!
ある資料で調べると、秀次の子供、4男1女は槍で刺殺し、鴨川に投げ捨てている!
そして、妻、側室、下女、下働きなど総て三条河原で公開処刑の非情の残虐極まりない。
鴨川の流れも戦場と見間違うほどに血の色で染まったという。
テレビでは、秀次の死のシーンはあったが、さらし首や、一族の処刑シーンは無い。

さらに続けて調べると、秀次がいた聚楽第は徹底的に破壊され、近江八幡城も破壊!
だから、聚楽第の跡を調べるが、なかなか史跡らしきものが見つからないようだ。
秀吉はなぜ、甥なのに、秀次一族をここまで残虐に殺したのだろうか?
私は、太閤様と言われて、子供の頃は信長、家康より秀吉が好きだったのに!
スッカリ嫌いになってしまったですよ!(汗)

これには当時の権力者、豊臣秀吉の老化による判断力低下と、わが子、
秀頼の時代を万全にしたい執念が、そうさせたと歴史書には書かれている!


この非道“血の制裁”が豊臣家滅亡を招いたと括っている

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by aibiki2009 | 2016-07-18 19:40 | 歴史っぽいお話 | Comments(8)

佐賀藩主 鍋島直正! 

先日、NHKBSの歴史番組で、佐賀藩主の鍋島直正が取り上げられていた!
歴史番組では、織田信長、秀吉、家康を始め、戦国大名の武田信玄、明智光秀
など、近畿中心の大名を取りあげることが多い。
ましてや、九州の鍋島藩の鍋島直正を取りあげるのは珍しいからバッチリ見た。
彼の功績を知ってる私は、やっと幕末の名大名を取りあげたかって思ったものです!

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この人が鍋島直正だ!

「俗に言えばこすい人。よく言えば利口才子という人だ」。
江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は晩年の回顧録『昔夢会筆記』で、
佐賀藩主鍋島直正をこのような言い方で評している。
明治新政府の核となった薩長土肥の中でも、他の三藩主とは違って、
直正は「下手なところへ顔を出さぬというふうの人」だったと、最後の将軍は回顧してる。

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戊辰戦争で使った佐賀藩の大砲、性能の良い佐賀藩が作った
最新式のアームストロング大砲です。性能が良くて、大活躍したと記載されている!

江戸時代の初期から、天領だった長崎をオランダ、中国以外の外国船の入港を
阻止すると共に、見張りも必要な為、佐賀藩と福岡藩が長崎警備を命じられる。
佐賀藩は、長崎・神ノ島などへの台場構築案は幕府に採用されなかったものの、
単独築造を決意すると、今度は資金援助を要請し五万両を獲得。
また、長崎での交易や外国船の購入では特別に許可を受けるなど、鍋島直正は
他藩にはない優遇措置を次々引き出した。

長崎警備の役目を最大限に利用して、最先端の情報、最先端の武器、軍艦など
藩の力として蓄えて、反射炉も韮山より先、当時、最新鋭の武器や産業を起こしている。

佐賀の人は、鍋島直正が自慢なのでは!

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by aibiki2009 | 2016-07-12 19:38 | 歴史っぽいお話 | Comments(8)

ジャガタラお春は不幸じゃない!

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先日紹介した観音様がある福済寺を後にして、10分ぐらい歩くと、聖福寺がある!
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ここにジャガタラお春の石碑があって、大きな石に「ジャガタラお春の碑」と刻まれている!

ここら辺は、筑後町と言って、お春が住んでいたところです。
彼女は1625年にイタリア人航海士と日本のキリシタンの女性のマリアとの間に産まれる。
容姿端麗、学業優秀で長崎のここ筑後町で家族と共に14歳まで住んでいましたが
14歳の時に幕府の鎖国令によって、海外に母や姉と共に追放されてしまいます。
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このお寺は、別のことでも有名なお寺でして、それは海援隊が関係した「いろは丸事件」
の話し合いがここ聖福寺で行われてるんです。

彼女は追放後に「日本恋しや、恋しや日本・・・」というような悲劇的な自分の境遇を
歌ったじゃがたら文という文章を日本に送り、人々の涙を誘いました。
明治時代のある政治家は「じゃがたら文を読んで泣かざるものは人でない」と言ったほど。
昭和14年(1939年)には、じゃがたら文を下敷きとして歌謡曲「長崎物語」も。

しかし、このじゃがたら文、あまりにも少女の作としては流麗かつ教養がありすぎ、
長崎の天文学者の西川如見の創作である事が定説になってます。
まあ、実際、お春は混血児として日本では差別されたらしく、おまけに日本に居たのは
14歳まで、しかも母親や姉と共にの追放だったわけで、そんなに悲劇的じゃない。

日本を出てからのお春の人生それは幸せなもので、自分と似たような境遇で
オランダ人との混血のシモン・シモンセンと結婚し三男四女をもうけている。
シモンシモンセンは、オランダ東インド会社で活躍したようです。
だから、ジャカルタに流されたお春ですが、結婚後は裕福に過ごしたようです。

ジャカルタで奴隷の売買や死後の自分の遺産分配を書いた記録を残すなど、
大変、裕福であったばかりではなく、自立した近代的な積極的な女性だったのです。
1697年4月に72歳で死去したという記録が残されている。
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by aibiki2009 | 2016-06-24 19:25 | 歴史っぽいお話 | Comments(6)

道富丈吉のお話 (日蘭ハーフ)!

久しぶりに、雨が止んだ長崎は、一息ついております!
今日は、長崎の歴史の事を書きますが、ちょっとせつないお話です!
時代は、鎖国時代の長崎で、当時の長崎奉行はあの桜吹雪の刺青で有名な
遠山の金さんのお父さんで、遠山左衛門尉景元のころ。

この道富丈吉の父はオランダ商館長(カピタン)のドーフと言う人である。
母は遊女となっているが、遊女の身分でなければ出島に入れなかったので、
シーボルトの長崎妻も、仮に遊女の身分になったとも言われていて、真実は不明。
だから、この女性も普通の娘であった可能性もある。

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彼の肖像画は残っていないが父、ドーフの肖像はありまして、この人である。

カピタンの仕事も交代の時が来て、父ドーフは彼をつれて帰りたかったが日本の国法では
それができないのだ、だから残された子は、日本で混血児として苦労するだろうと思い、
日本を離れる時、子供のために長崎奉行にくどくどと子供の行く末を頼んでいるのである。

そのため彼は長崎奉行の遠山左衛門尉景元に自分の財産である白砂糖を預け、
その利子を子供の養育に当てることを頼むのである。
白砂糖と言っても馬鹿にしてはいけませんよ。
記録によれば、その預けた白砂糖の代金の利子だけで年間400両もあったのです。
当時、砂糖は日本で超貴重品であったから、充分な養育費です。

さらにドーフは幼い子供に名前をつけますが、オランダ語の名前では将来いじめられるかも
知れないと思ったのでしょう、日本名「道富丈吉」と名づけます。
そして、この道富(ミチトミと読む)は、音で読むと「ドーフ」、自分の名前も刻んでいる。

その丈吉はかわいそうに17歳で病没するのです。
シーボルトの娘、いわゆるオランダおいね、は有名であるが、彼のことを知る人は少ない。

なお、丈吉の墓は今も長崎の晧台寺にある!

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by aibiki2009 | 2016-06-23 19:08 | 歴史っぽいお話 | Comments(8)

松平康英 ・長崎奉行の切腹!

今日も、穏やかな1日だったが、家で静養することにし、長崎の切腹事件を書きます!
一度長崎奉行を務めれば、子々孫々まで安泰な暮らしができると言われた。
長崎奉行は公的収入よりも、余得収入の方がはるかに大きいためだ。
すなわち、輸入品を御調物の名目で関税免除で購入する特権が認められ、
それを京・大坂で数倍の価格で転売して莫大な利益を得たと言う。

加えて舶載品をあつかう長崎町人、貿易商人、地元役人たちから
八朔銀と呼ばれる献金(年72貫余)や清国人・オランダ人からの贈り物や
諸藩からの付届けなどがあり、もうウハウハ状態!
そのため、長崎奉行になりたいとして、事前の就任運動で金品がかなり動いたようだ!
そんな長崎奉行にせっかくなったのに、長崎の地で切腹した人物がいる!

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お墓と事件の説明看板!
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鍛冶屋町の大音寺に松平康英・長崎奉行のお墓はある!

それが、文化4年(1807年)1月30日、長崎奉行に就任した松平康英です。
当時、日本では長崎のみ、中国とオランダの貿易を認めていたが、
イギリス船フェートン号がオランダ船拿捕の為にオランダ国旗を掲げて長崎港に入り、
オランダ商館員2人の捕縛・長崎港内の捜索を行なう事件を起こした(フェートン号事件)。

当時、長崎警備をしていた佐賀藩は、初めての有事になにも出来ず!
フェートン号側から薪水と食料を提供しなければ長崎港内の船舶や長崎の町を
焼き討ちすると脅迫を受けたため、やむなくこれに従う。
松平康英 は、他国の脅迫に屈してしまった国辱の責任を取り、切腹して自害。
当時、兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹。
さらに幕府は、藩主鍋島斉直に100日の蟄居を命じている!

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by aibiki2009 | 2016-04-10 18:57 | 歴史っぽいお話 | Comments(4)

三浦按針(ウィリアムアダムス)、長崎県平戸に墓がある!

今日も、長崎県に関係がある歴史的登場人物の事を書きたい!
それは、三浦按針(ウィリアム・アダムス)で、始めて日本に来たイギリス人である。
日本史的には関ケ原の戦いがあった1600年(慶長5)オランダ船リーフデ号(航海長)で
豊後(大分県)に漂着し、平戸には1613年(慶長18)にやって来ている。

その間徳川家康は、彼を外交顧問として、今の神奈川県横須賀市に住まわせ、
三浦半島の地名から、日本名を三浦按針とし、250石を与え召し抱えていたのです。
慶長年間、オランダ、イギリスが通商を許され、平戸に商館を設置するようになったのは、
按針の力によるところ大であったといわれている。

家康に信頼された按針だが、1616年(元和2年)4月に家康が亡くなり、
跡を継いだ徳川秀忠をはじめ幕臣たちの方針で貿易を平戸のみに制限し
鎖国体制を敷いたため、按針の活躍するシーンが激減したようだ。

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平戸イギリス商館で仕事をすることになったが1620年(元和6)平戸で病死、55歳だった。

そして平戸の外人墓地に埋められたが、その後のキリシタン弾圧によって
外人墓地は総て破壊されている!
近年になって、三浦按針のお墓が再建されていて、この墓は当時の物ではない!
以前、平戸に旅した時、三浦按針のお墓まで行って、拝んだこともあった!

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by aibiki2009 | 2016-04-06 18:11 | 歴史っぽいお話 | Comments(4)

世界遺産・軍艦島は佐賀藩(鍋島)だった!

以外だと思ってる人が多いと思いますが、今じゃ長崎の観光で大人気の
世界遺産になった軍艦島は、もともと端島と言って、佐賀藩のものだったのです!
長崎から遠い、佐賀藩が何故に軍艦島(端島)の持ち主だったかをお話しましょう!

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           世界遺産になり、大人気の軍艦島(端島)です!

長崎半島の中間付近に武家屋敷の深堀家の屋敷跡があります。
もともと、深堀氏は鎌倉時代から続く、独立した大名であった!
1592年、深堀純賢氏は朝鮮への出陣後、事件があって佐賀藩に組み込まれ、
鍋島の姓に改名し、6000石の家老職となり、それが、深堀鍋島家の起こり。
この家老職は、その後、明治維新まで続くのである!
その領地に近辺の島も含まれており、香焼島、伊王島、高島、端島があったのです!

明治維新後、武士の生活は苦しくなったので、旧深堀家家臣は深堀商会を組織し、
海産物や石炭経営で生活していました。
高島炭鉱が主な稼ぎ頭でしたが、明治7年江藤新平の佐賀の乱に加担し
政府に逆らった事から、官営として政府に取り上げられ、三菱に払い下げられます。

その後、江戸時代には何てこと無かった端島の石炭開発に乗り出しているんですね。
そして明治23年端島の所有者鍋島孫太郎(鍋島孫六朗、旧深堀鍋島家領主)が
三菱社へ10万円で譲渡しています。
端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となっておりました!

その後、高層建築などが建てられたり、島の周りが石やコンクリート補強されたりで、
その姿が軍艦土佐に似ていた事から、軍艦島と呼ばれたのです!
現在は、平成の大合併で長崎市となったのをキッカケに長崎市のものになってます!

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by aibiki2009 | 2016-04-04 19:47 | 歴史っぽいお話 | Comments(7)

東京・高島平と高島秋帆の関係!

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長崎の思案橋から少し登った所に、高島秋帆の邸宅跡がある!
建物は、原爆で吹き飛ばされ、跡地だけが残ってます!

彼は、幕末にオランダ人から洋式砲術を学びかつ西洋式大砲の製造も学んでます!
当時の出島を通じて、いち早く中国・清がアヘン戦争で敗れた事を知り、日本の警備を
西洋砲術で護ることを提言するべく、門弟を100人以上連れて上京し、1841年(天保12年)、
当時は、徳丸ケ原と言ったが、この地で日本で初めての洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を
行ったが、長らく「徳丸ヶ原」と呼ばれる農作地だったのです。

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荒川、新河岸川付近で、高島秋帆らによる演習の様子を描いた絵が残っている!

次に、東京の板橋区に高島平と言うマンモス団地がある!
昭和31年に同地域の徳丸ヶ原330ヘクタールを当時の日本住宅公団が買収して
一大団地を建設する計画を進め、同時に東京都が都心に直結する都営地下鉄6号線、
現・都営地下鉄(三田線)を整備したんです。

そして、1969年(昭和44年)、この地区を高島秋帆にちなんで「高島平」と改称。
東京在住時代、そのような事は全く知らずに、地下鉄なのに、地上にある駅・高島平駅を
仕事で使ったりしておりました!

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by aibiki2009 | 2016-03-02 19:05 | 歴史っぽいお話 | Comments(2)

還暦を過ぎても、現役ボーカリストで頑張ってます。スタンダードやハワイアンを中心に歌ってます。血液型 O型