ブログトップ

68歳現役ボーカリスト

カテゴリ:長崎の古写真( 29 )

長崎居留地を作ったのは天草の人!

今日は、久々に長崎古写真に関わるお話を!

b0181748_18105416.jpg
明治の初め、ベアトが撮影した海岸を埋め立てた大浦バンド居留地一帯!

長崎の町を構成する景観の中には、異国情緒をそそるものが数多く存在する。
丘の上の教会堂、和洋折衷の洋風建築、雨に濡れた石畳などなど!
これら外国人居留地の風景も「異国情緒」長崎の代表的景観のひとつだ。

しかし、これら広大な居留地を造り出したのは長崎人ではないのです。
天草出身の北野織部(北野家へ養子にでてる)と小山秀之進という兄弟なのだった。
大浦海岸一帯18,525坪という広大な土地を埋め立て、これを中心に周辺一帯及び
背後の山手を含めて34,652坪の宅地を造成は、長崎人では出来なかった!

天草は、かねてより新地開拓、新田開発など、各地に干拓の歴史を持つ土地柄!
天草は石も取れるから、護岸工事には、天草石が利用され、労働者も動員!
長崎を巡る幕末の動乱と、華々しい近代化の影に隠れてしまったが、
天草人夫集団の存在が、実は「異国情緒」長崎の基盤となっているのです。

この事は、あまり知られて無い!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[PR]
by aibiki2009 | 2017-04-03 20:08 | 長崎の古写真 | Comments(6)

龍馬を撮ったのは、上野彦馬じゃないかも!

b0181748_20403416.jpg
あまりにも有名な龍馬の写真です!

一般的には、日本での写真家の元祖である上野彦馬が撮ったと言われている!
1867年頃に、長崎の上野彦馬撮影スタジオで撮影されたと。

しかし、その上野彦馬の弟子に、「井上俊三」という土佐藩出身の人物がおりました!
他の土佐藩出身の人々は、井上に無料で写真を撮ってもらっていたようだ。
龍馬の写真は、スタジオは間違いなく上野彦馬のスタジオだ!
彦馬スタジオで撮ったと分かるのは、同じサイドテーブルで写っている多くの人がいるから!

そして龍馬の撮影者は、この井上だという説があります。
この話は、長崎の歴史を勉強している私の知人から、今日、聞いたばかり!
龍馬の立像写真の原板(湿板)は井上家に保存されていたようだし。
だから、撮影者は、彦馬じゃなく「井上俊三」と考える方べきだと言われます。

おそらく撮られたのは慶応3年(1867)1月で、龍馬が亡くなる10ヶ月前だと。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[PR]
by aibiki2009 | 2017-01-30 21:05 | 長崎の古写真 | Comments(6)

銀河鉄道999のメーテルのモデルは、シーボルトの孫!

松本零士さんの『銀河鉄道999』に登場する謎の美女メーテル。
長いまつげに、背中まで垂らした金髪をなびかせる!
そして、楚々とした雰囲気に魅入られてしまう人も多かったことでしょう。

b0181748_1654699.jpg

そのメーテルのモデルとされたのは、シーボルトの孫娘たか(高子)だと言う。
テレビ出演した松本さんが語っていました。
高子は、13歳まで長崎で育ち、14歳でシーボルトの弟子だった二宮敬作がいる
宇和島へ行き、宇和島藩に奉公する!
1866年に、二宮敬作の甥だったシーボルト門下の医者、三瀬諸淵と結婚。
しかし、亭主には先立たれ、その後、再婚するも、その亭主も亡くなる。
だけど、彼女は、昭和13年、86歳まで生きたのである。

松本さんは、戦争中、母の実家のある四国・大洲市新谷に疎開し、少年時代を過ごす!
松本零士の先祖が、たかの亭主だった三瀬諸淵の同僚だったとのこと!
そして、高子と会いとても印象に残り、その話を零士が聞き継いだ為に、
無意識に作品に出てくる女性のモデルとなっていたと松本零士自身が語っている。

出島の商館医をしていたシーボルトと、妻お滝さんとの間に生まれたのが、「いね」。
その、いねと、シーボルトの弟子だった石井宗謙の間に生まれたのが、「たか」です。
でも、いねは、自分の意に反して宗謙に暴行され、「たか」を身ごもるのです。
宗謙には既に、妻も子もいたのにです。
そうして生まれたのが、たかだったのです!(下の写真が「たか」です)
b0181748_16403942.jpg


なんとも憂いにみちた美人ですよ!
[PR]
by aibiki2009 | 2017-01-27 19:45 | 長崎の古写真 | Comments(4)

古写真・生麦事件の被害者!

貴重な古写真を見つけた!
薩摩藩の行列に遭遇して、無礼者とばかりに殺害されたイギリス人の遺体だ!
殺害されたのは、イギリス商人のチャールズ・レノックス・リチャードソンである。
この事件は、日本史の授業でも勉強したいわゆる「生麦事件」です。

b0181748_13325818.jpg
 1862年9月14日の生麦事件で、殺害されたリチャードソンの遺体!

生麦事件を詳しくは知らない人の為に説明いたします!
1862年、殺害されたリチャードソンは、上海での仕事を引き払ってイギリスへ帰郷する際に、
観光のために日本へ入国、上海で交友のあった横浜商人ウッドソープ・クラークと再会し、
男3人、女1人の4人で川崎大師へ向かうことになる。

その途中、生麦村で島津久光の行列と遭遇するが、騎乗のまま行列に乗り入れ、
激昂した薩摩藩士奈良原喜左衛門に無礼打ちにされる。
もっと詳しく説明すると、薩摩藩の行列に、正面から乗り入れてきた騎乗のイギリス人
4人に対し、薩摩藩士の先頭は、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、
イギリス人たちは、「わきを通れ」と言われただけだと思いこんだようだ。
しかし、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたのに、結局4人はどんどん行列の中を
逆行して進んだために、無礼者となり、切りつけられたのである。

リチャードソン、日本へ立ち寄らずまっすぐ本国へ帰っていれば死ぬ事は無かったのに!
その後、イギリスは、薩摩藩と江戸幕府に賠償金10万ポンド、犯人の引渡しと陳謝を
要求するが、薩摩藩は拒否し、薩英戦争まで引き起こすことになる。
ちなみに、幕府は賠償金は払ったようだ!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[PR]
by aibiki2009 | 2016-12-17 19:31 | 長崎の古写真 | Comments(5)

長崎奉行と部下たち!(古写真から)

長崎には、写真が幕末に入って来た時代、上野彦馬、イギリス人のベアトなどが撮った
貴重な古写真が多く残されていて、幕末の歴史好きには、堪らない!
最近、貴重な古写真を見つけたが、今日紹介するこの写真は、長崎に残る古写真では無く、
先日紹介した幕末に長崎へ来たオランダ人医師のボードインの資料から見つかっている!

b0181748_143844100.jpg
この真ん中にいるのが、西暦で言う1862年-1863年に長崎奉行だった
大久保 忠恕(おおくぼ たださと)で、周りはその部下!

ボードインが、1862年11月15 日の本国への手紙に、
「近々新任の長崎奉行大久保豊後守忠恕が病院(養生所)を見学に来 訪する」と
書かれていて、その際の記念に撮ったものじゃないかと言われている。
領事館の中庭とテラスで撮影されたと解釈できるようだ。

この人は、文久2年(1862年)長崎奉行となり文久3年(1863年)大目付まで栄進するが
1868年の5年後には、鳥羽伏見の戦いにおいて幕軍を指揮したとある。
初期の頃、長崎奉行になると、貢物などで孫の代まで暮らせると言われて、いわゆる賄賂を
してまでも、なりたいと言う人が多かったが、幕末の長崎奉行はイイ思いはしてない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[PR]
by aibiki2009 | 2016-12-03 20:37 | 長崎の古写真 | Comments(6)

TBS「仁」にも出ていたポンセの後任・ボードウィン!

先日、長崎大学病院の元祖を作ったポンセを紹介しましたが
今日は、某民放ドラマ「仁」でも、出演していたボードウィンを紹介したいと思います!
この人は、ポンペの後任として医学伝習と小島養生所を引き継いだ人です。

長崎でポンセの後を継いで、幕府の医学校の教授を務める。
専門は眼科で、ドラマでは、当初は仁に対し懐疑的だったが、仁の医術を見て
態度を転換、仁の情報を世界に向けて発信すると言う役だった。

b0181748_18475339.jpg
アントニウス・ボードウィン、オランダ人医師。
b0181748_1821255.jpg
1864年のボードウィンと医学生の集合写真!

ボードウィン

1862年(文久2年)、先に日本の出島に滞在していた弟の働きかけにより、
江戸幕府の招きを受けて来日。
ポンペの後任として長崎養生所の教頭となる。
その間、東京、大阪、長崎で蘭医学を広め、また養生所の基礎科学教育も。

そして幕府に医学・理学学校の建設を呼びかけ、その準備のために
1866年(慶応2年)に教頭を離任し、緒方惟準ら留学生を伴って帰国した。
1867年(慶応3年)に再来日し、新政府による大阪仮学校、大阪陸軍病院に務め、
大学東校(後の東大医学部)で教鞭をとった。
1870年に帰国し、1873年にはオランダ陸軍に復帰。
1884年に退役し、ハーグで1885年に病没。

また、上野に病院を立てる計画が持ち上がったときに、上野の自然が失われることを
危惧して一帯を公園として指定することを提言した。
そして、上野公園にある銅像では、西郷さんが有名だけど、業績を顕彰する銅像
「ボードワン博士像」が目立たないが、東京都美術館の近くにあります。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[PR]
by aibiki2009 | 2016-11-06 20:00 | 長崎の古写真 | Comments(9)

この人は誰でしょう?

長崎の古写真よりクイズを出させてもらいます!

b0181748_16462721.jpg
ちょっとボケてますが、前で座っている右の外国人は誰でしょう?
(ヒント・左は松本良順で立ってる人は教え子の生徒)
b0181748_16471791.jpg
1人での写真!

この人は誰でしょうか?

答え

ずっと下にあります!
















































































この人は、ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトと言いますが、通称はポンペです!
オランダ海軍の二等軍医。
幕末に日本の長崎へ来日し、オランダ医学を伝えた人です。
そして、日本で初めて基礎的な科目から医学を教え、長崎大学医学部の前身
伝習所付属の西洋式の病院も作ったのである。

日本には1862年(文久2年)まで滞在し、その後はオランダに戻った。
長崎大学医学部は、この人抜きには、語れません!
長崎奉行所西役所医学伝習所において医学伝習を開始したのが1857年11月12日!
この日が、近代西洋医学教育発祥の日となってます。
そして、この日は、現在長崎大学医学部の創立記念日となってます。


松本良順

江戸の麻布で生まれる!、将軍侍医、幕府陸軍軍医!
安政4年(1857年)閏5月18日、長崎伝習之御用を命じられ、
長崎海軍伝習所に赴く。
オランダ軍軍医のポンペに医学等の蘭学を学ぶ。
将軍侍医などを務め、将軍徳川家茂などの治療を行う。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、
次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏した。
戦後一時投獄されるが、明治2年1869年赦免され、出獄後に東京の早稲田に
西洋式病院の蘭疇院設立。
山縣有朋などの薦めで明治4年(1871年)に兵部省に出仕。
明治6年(1873年)大日本帝国陸軍初代軍医総監となる。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[PR]
by aibiki2009 | 2016-11-04 20:05 | 長崎の古写真 | Comments(6)

福沢諭吉が長崎に遊学中、生活したお寺。

江戸時代、オランダ・中国と交流のあった長崎には学問を志すたくさんの人が。
遠い長崎まで来るのは大変で、その多くは、逗留する宿賃もなくとにかく裸一貫で
長崎入りをしたのですが、当時長崎は野宿は禁じられていました。
そこでお寺を宿として間借りする者が多かったのです。

福沢諭吉もその一人で、1854年、砲術研究の名目で長崎に遊学する。
中津藩の平侍だった諭吉は、当時光永寺に逗留していた中津藩家老の嫡男奥平壱岐
のもとを訪ね、お世話をすると言う名目で滞留させてもらってる!

b0181748_14475675.jpg
福沢諭吉が遊学し過ごした、江戸時代末期の光永寺!(長崎大学図書館参照:)
中島川に架かる眼鏡橋を少しさかのぼった所に、このお寺はあります!

福沢諭吉の滞在は、わずか一年余りで長崎を離れ、大坂の緒方洪庵の適塾に!
慶応義塾の始まりは、諭吉が中津藩中屋敷の長屋に入って蘭学塾を開いたときとされる。
光永寺の山門横には「福澤先生留学乃址」碑がある。

b0181748_1455534.jpg


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[PR]
by aibiki2009 | 2016-03-10 19:34 | 長崎の古写真 | Comments(4)

長崎古写真 ねずみ島のピクニック!

b0181748_14294953.jpg
長崎大学図書館参照      1864年:ベアト撮影!

長崎港の入り口付近にねずみ島と言うのがあって、長崎の子供には思い出いっぱいの島!
何故かと言うと、夏休みに水泳教室がここで長年行われておりましたから!
もちろん、私も子供の頃、お世話になった島でございます!
この島で、過去、このような事が有った事も知らず、水泳を覚えるために必死でした!

1854年9月7日、日英和親条約を結ぶために長崎に入港した
ジェイムズ・スターリング提督率いるイギリスの東洋艦隊は水夫の休養のため
長崎港の入り口にあったみずみ島上陸を要求し、長崎奉行荒尾成充はこれを許可してる。
10月14日には長崎で日英和親条約が締結されています。

イギリス領事は1859年以来、5月24日のヴィクトリア女王の誕生日を記念して
居留地のヨーロッパ人をピクニックに誘うことを恒例としていましたが、
この写真は1864年のピクニックの様子ですが、このとき長崎の居留地に住んでいた
大部分の人たちがこれに参加したようです。

中央で寝そべるトーマス・グラバーのひざの上にライフル銃が見えます。
ちょんまげ顔の日本人は警護のサムライですが、記念写真では集団のなかに!
攘夷をとなえる「テロリスト」の外国人襲撃を警戒しながらの危険なピクニックだった!
しかし、たくさんの女性や子供たちも交じり、楽しみな行事だったようです。

現在、この島は埋め立てられ陸続きとなってます!


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[PR]
by aibiki2009 | 2016-01-10 19:26 | 長崎の古写真 | Comments(5)

長崎古写真、居留地及び、大浦バンド!

b0181748_1562110.jpg
長崎大学付属図書館:参照
F.ベアトが明治以前に撮影したと思われる長崎の居留地、大浦バンド!

おそらく、南山手の現グラバー園展望台付近から大浦居留地付近を撮ったのだろう!
資料によると、元治元年(1864)の大浦海岸通りの5間築足しは完了し、その前面の
石積み波止は梅香崎の運上所前がほぼ出来上がり、手前の2基が工事途中とある。
右下の洋館はベルヴューホテル(現在のANAグラバーヒル)。
その前の坂が、今は大浦天主堂へ向かう道路になっていて、土産店がいっぱいです!

b0181748_15411654.jpg
古写真と同じ撮影ポイントを捜したが、もう少し下からの撮影だったかも!
おそらくグラバー園に入らないとダメかもしれない!
後ろに見える山蔭は同じですが、広かった海岸通りは、埋め立てられて、
かつビルも建ってしまい、昔の海岸通りはまったく見えない!
b0181748_1554415.jpg
正面に見える山の真ん中が金毘羅山で、昔と同じ風景!
手前の丘が立山で、今は観光ホテルが建っている!
海岸通りは、海が埋め立てられた事により、スッカリ面影は消え去ってます!

あ~~勿体ない・・・!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[PR]
by aibiki2009 | 2015-12-21 21:00 | 長崎の古写真 | Comments(6)

還暦を過ぎても、現役ボーカリストで頑張ってます。スタンダードやハワイアンを中心に歌ってます。血液型 O型
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30