2010年 10月 25日
勝海舟の妻の遺言
勝の乱交の一番の被害者は、やっぱり正室の民さんじゃないかと思う。
普段は正室として凛として、振舞っていたようですが、本心は、違っていたのです。
明治6年、龍馬伝にも出てくる海舟が長崎で世話になった長崎の豪商小曽根乾堂が、
長崎妻と家族を連れて東京の勝邸を訪れている。
「妻、娘、梶玖磨の母(小谷野エイ)、お三禰(おみね)妹、勝との子梅太郎の合計5人」
何も知らなかった正妻の民は、相当ショックを受けたようで、勝家では大騒動になっている。
現在だったら、即、離婚騒動に発展するだろうね。
余談ですが、「英雄、色を好む」って言葉があります。
この言葉のように海舟は相当なモノだったが、伊藤博文も相当だったと聞く。
この伊藤博文については、またの機会に書きたい。
男って、何か命を掛けた仕事に取り組む緊張感にあふれた時、
新しい女に手を出すことがある。
海舟は、長崎にて練習船にのって、何度か難船の浮き目にあっているが、そんな時、
梶のお玖磨さんとめぐり合っているのだろう。
また、昨日書いた側室のお糸さんの件だって、咸臨丸で太平洋を渡り、アメリカに
派遣されて行くと決まった頃にお糸さんに手をつけている。
お糸さん、まだ15,6歳の頃だったと書かれている。
海舟にも困ったものですよ。
海軍伝習のために単身赴任した長崎に"長崎妻"を持ったのをかわきりに、
妻以外の女性に産ませた子供も片手では数えられない。
そうした夫の乱交に、ひたすら耐え忍んだ妻、民子は海舟の死後6年後に、
次のように言葉を残して、この世を去ったという。
「間違っても勝のそばに埋めてくださいますな」
これが彼女の本心だったのですよ。
追伸
実際に、先に亡くなった息子の子鹿のお墓に埋葬され、昭和に入って
もう一緒にしてもいいだろうって一緒にしたそうです。
勝 海舟や伊東博文に限らず「英雄色を好む」ってのはあったみたいですね!知らなかったほうがよかったと言うようなことはたくさんあると思います。
しかしそれによってその人の功績が帳消しになることも無いでしょう・・・まあそれはそれでいいのではないでしょうか。
だれでも人に知られたくないことは1つや2つはあると思いますもんね・・・!
Nさんもいい男だから、かなりモテモテだったでしょうね。
そこにバンドをやってる。
モテル要素がいっぱいですよ・・。
勝海舟みたいなことは無かったと思いますが・・・。(笑)
しかし、歴史を調べていると、途中から調べたい事より
面白いことにぶち当たります。
おもわず脱線してのめりこみます。
そうですね。
功績があるから、紙幣になるのですよね。
昔のこの当時の人は、毎日が生きるか死ぬかの連続だった
と思います。
だから、そちらの方も、お盛んに成らざるを得なかったのかな?
せいぜいステージ(喫茶店)の前にいつも女の子が4~5人きてたくらいです。それだけです、な~んもありませんでした。
ai サンたちもそうだったでしょう・・・?
そちらのほうもお盛んだったら、今頃は大物になってますよ・・・(苦笑)
その頃は元気いっぱいだったから、いろいろありましたよ。
それと、女子大のハワイアンバンドのコーチもしてましたから
周りは女子大生だらけのハーレム状態の時も・・・・。