2011年 10月 30日
「天正遣欧少年使節」パート3
長崎から2年6ヶ月の航海の後、リスボンへ到着してる。
当時13歳前後の少年使節の旅は、先進文化に触れる喜びと同時に、
ポルトガルの商船はインド航路を4隻中2隻が無事に帰りつければ幸いだと言われるほどに
危険を伴った旅でした。
長崎を出発したのは1582年2月、この年の6月には織田信長が
本能寺で暗殺されてるんです。
使節は2年6か月後にポルトガルの首都リスボンに到着。
ポルトガル、スペインで国王などの歓迎を受けた後、最後の訪問地ローマでは、
ローマ教皇・グレゴリオ13世自らの祝福やローマ市民権の証明書の授与など
大歓迎を受けました。
しかし、出発から8年後、ヨーロッパの文化を学び、たくさんのお土産やグーテンベルグ式の
活版印刷機などを持って帰国の途に着いた使節団を待っていたのは、
一変した日本の状況でした。
保護者である大村純忠、大友宗麟の死、そして豊臣秀吉によるキリスト教の禁教令でした。
一行はポルトガル国副王の使節という資格で日本入国を許可され、
1590年7月長崎に帰ってきました。
翌年、聚楽第(じゅらくだい)にて豊臣秀吉に会い、その前で西洋音楽を演奏し、
秀吉が3度アンコールしたと伝えられています。
しかし、その後の4少年は弾圧の中で過酷な運命をたどります。
4少年の生涯は、歴史の過渡期の中で、まさに光と影。
まさに激動の運命だったと言えるでしょう。
次回は、彼らのその後を追いかけましょう!
つづく
どうしました。かなり突っ込んだ話ですね。
話を全部聞いてからのコメントになるんでしょうか。
いや~~こちらは、今日も雨。
と言う事は、金、土、日と3日間も雨が続いてます。
表に出る予定が総てキャンセル状態。
こう言う時は、歴史を楽しむのが一番です。
何かブログで書けるような題材が無いかブラブラ!
そうしてる内に、このテーマに突き当たりました。
もちろん、そこそここ「天正遣欧少年使節」のことは
知ってましたが、突っ込んで詳しく調べたことが無かったのです。
いい機会だから調べてみたくなったのです。
今日も、さらに書きますからね!