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73歳現役ボーカリスト

「天正遣欧少年使節」パート最終回

1586年2月末、リスボンを出港して帰路につき、1588年6月19日マカオに着いたが、
関白秀吉による禁教のため、4人は入国出来ず、マカオで帰国の入国許可を待って、
1590年7月28日、やっと8年半ぶりに帰国してます。

「天正遣欧少年使節」パート最終回_b0181748_11415279.jpg
「天正遣欧少年使節」の碑は、大村市にあります。
大村湾の島に作られた長崎空港へ渡る橋が有りますが、その入り口にあります。



翌1591年(天正19年閏1月8日)に謁見した使節らは、秀吉から高禄での仕官を
のぞまれたが丁重に辞退した。
そして帰国した四人は、その後全員が天草コレジオのイエズス会に入会し、
司祭をめざして勉強することになる。

正史・伊藤マンショのその後

四人の少年の中で最年長。
帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。
1601年には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移る。
その後マカオで神学を学び、1608年長崎で司祭となる。
布教活動の長旅で体を壊し、1612年、四十三才で長崎にて病死する。
しかし、キリシタンへの弾圧を受けて、その墓地は破壊されて、
骨は捨てられたと伝えられます。

正史・千々石ミゲルのその後

4人の中で、ミゲルだけが10年後にイエズス会を脱会。
名を千々石清左衛門(せいざえもん)と改め、妻帯し子を設けた。
千々石ミゲルはキリシタン側からみれば背教者であり、裏切り者で大敵となる。

しかし、キリシタン禁制の流れの中で、同じくキリスト教を棄教し
弾圧に乗り出した大村藩の初代藩主、大村喜前(よしあき)。
(大村純忠の子供なのでミゲルにとっては従兄弟にあたる。)
この喜前からも、命を狙われるような目にあう。

ここを逃れてさらに頼って行ったのが、これまた従兄弟の有馬晴信。
ここは大村とは反対にキリシタンの保護区のようなものだから
憎い背教者めということで、やはり瀕死の重傷を負わされたという。

かつてローマ教皇の抱擁と接吻を受けた栄光の人物は、いまやキリシタンからも
反キリシタンからも逃げ惑う故郷喪失者、その名を口にすることもはばかられる
タブーのような人間になったのである。
いつどこで死んだのか、どんな晩年であったのか、すべて謎。

副使・原マルチノのその後

1608年長崎で司祭となる。
布教活動を行うが、徳川幕府の禁教令によりマカオに脱出。
1629年マカオにて病死する。
彼の遺骸はマカオの大聖堂の地下に生涯の師ヴァリニャーノと共に葬られた。

副使・中浦ジュリアンのその後

同じく、1591年天草の修練院でイエズス会に入会
司祭になったジュリアンは博多で活動、その後領主黒田長政に追われ長崎へ。
その後20数年、各地で地下活動し、小倉で捕まる。
その後、長崎へ送られ穴吊りの刑に処せられたのです。
65年の生涯だったのです。

「天正遣欧少年使節」パート最終回_b0181748_11511878.jpg
中浦ジュリアンの記念公園です。

以上が、「天正遣欧少年使節4人」のその後でした。

帰って来て見たら、日本はキリシタン弾圧の地に。
彼らの華やかな時は終わり、苦悩の時へと変わって行ったのです。
彼らは運命をどう思ったのでしょう?
前半が華やかだっただけに、そのギャップが凄まじいと思うのは私だけじゃないと思う。

しかし、1人だけ離教した千々石ミゲルのその後がハッキリしないのは
どうも、スッキリしないじゃないですか?

その千々石ミゲルをもう少し掘り下げて調べてみたい。
だから、続いて「千々石ミゲル」のその後を書きます!

延長戦に入ります

参考文献
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇Ⅰ「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編Ⅱ「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇Ⅲ「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇Ⅰ「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇Ⅱ「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇Ⅰ「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇Ⅱ「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇Ⅲ「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇Ⅰ「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇Ⅱ「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇Ⅲ「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇Ⅳ「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)
Commented by りき at 2011-10-30 21:08 x
こんばんわ、aibikiさん。

興味深く読ませていただきました。

ところで、この出典は、どこですか?

私が知っている内容とは、若干違っているものがあるのですが・・・。」
Commented by aibiki2009 at 2011-10-30 23:34
りきさん今晩は。

これは地元のサイトを参考に書かせてもらいました。
私もあっちこっち調べだすと、いろいろ違う部分もありましたから
多少違うと思う場面があるかもです。

歴史って時代時代で変わることがあります。
ましてや、この天正遣欧少年使節のことは、江戸時代は
キリスト禁教令のため、いっさい表に出なかったと
書かれてました。

だから、意外と違うように伝わった部分もあるかもです。
Commented by りき at 2011-10-31 09:53 x
おはようございます。

この使節団のことについて、接待係だったスペイン人の手紙が残っています。その翻訳を読んだ内容を、先のブログコメントや、自分のブログアップしようと、昨夜何度か、試みましたが、しっかり内容を書き込んだ後、消えてしまいました・・・・(悲)

だいたいは、おなじ内容です。

千々石ミゲルは、貴公子のようなハンサムな風情ながら、病弱で、勉強はあまりお好きでなかった・・・ようですね。
色男、金とOは、なかりけり・・・・ナンテ、揶揄する言葉が聞こえてきそうですが、4人とも、教養高き男たちとしてもてはやされるはずべきところ、時代の波にもみくちゃでしたね・・・・。
Commented by りき at 2011-10-31 09:58 x
追伸、

中浦ジュリアンは、無口で、孤独な方だったようですね。
嘘をつけない真正直な性格で、学問や神学については、大の勉強家だったとあります。

この方の、記念公園は、どこにあったのですか?
平和公園のそばでしょうか?
Commented by aibiki2009 at 2011-10-31 13:26
りきさん今日は!

今日はやっと晴れて、午前中グランドゴルフをプレーし
先ほど帰って来ました。
今日は、母はデイケアーの日ですが、体調が悪く休んでます。
だから、帰りに食料をいっぱい買い物をして先ほど大急ぎで
帰ってきました。

土日が雨で、予定がキャンセルになり、家にいることになり
いつかは書きたいと思っていたこの題材を自分も楽しみながら
書かせてもらい、2日間堪能させてもらいました。

やっぱり歴史はロマンがいっぱいです。

>この方の、記念公園は、どこにあったのですか?
平和公園のそばでしょうか?

ここはね、けっこう遠いんです。
西彼杵半島の上の方です。
そうですね、平和公園から1時間ぐらい掛かると思います。

長崎に港が出来る前は、平戸や横瀬浦と言ったところが
ポルトガル船の寄港地でした。
長崎以外でもフロイスが辿ったところがあるんです。

まだまだこの時代の事は、話題に出来ますよ!
例えば、平戸など!

by aibiki2009 | 2011-10-30 11:54 | 歴史っぽいお話 | Comments(5)

古希を過ぎても、現役ボーカリストで頑張ってます。ジャズ・ポピュラーのスタンダードやハワイアンを中心に歌ってます。血液型 O型

by aibiki2009
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