2016年 11月 13日
江戸時代、長崎にてポルトガル船員61名処刑!
1637年(寛永14年)、鎖国を決定づけたのは、島原の乱である。
この事件で、幕府はキリスト教を反乱の元凶と考え、ポルトガル排除を準備し
そして、ポルトガル船の来航を禁止!
その後、長崎にて、1640年に大事件が発生している!
それは、禁止されたその翌年にポルトガル船が通商再開を求めて再び来航したのだ!
遠路はるばる来たポルトガルの船員、乗組員74名中61名を長崎にて処刑したのだ。
その数の多さにちょっとビックリです!何もそこまでしなくてもって!
多少処刑ぜず残したのは、これらの事件を本国へ報告させる為らしい。
残りの船員は返し、この事件を報告させている!!
それ以降、福岡藩、佐賀藩が1年おきに長崎警備が始まるのである!
幕府は、かなり野蛮なように見えるが、ポルトガルは日本人の奴隷化による人身売買を
それまでにやっていて、尚且つキリスト教信仰による島原の乱、そして
植民地化の怖れなどもあり、秀吉、家康、秀忠、家光らは嫌悪感いっぱいだったと!
下の絵図は、その後、1647年6月に再度、ポルトガル船が来港した時の絵図!

長崎奉行は、幕府の指示を待つあいだ、ポルトガル使節が船から降りたり、
勝手に出航したりしないよう、ただちに厳重な警備にあたりました。
そのものすごく厳重な警備の様子が詳細に描かれた一枚の絵図です!
この時は、前回のポルトガル船員処刑の報復を恐れていて、この非常事態の警備に
伊予松山藩・伊予今治藩、細川藩、福岡藩、佐賀藩、大村藩、小倉藩、柳川藩など!
軍勢は約48,300人、船は約898艘がこの警備に参加したと記されています。
その後は、処罰なし"とし、幕府の出航命令に従って長崎港を8月に去っていきました!
これ以降、ポルトガル船は来てない!
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